磯丸水産へ行った。
磯丸水産はすごくいいからだ。
磯丸水産は、この世のあらゆるいいものを集めた大きな概念である。
磯丸水産は、見た目には向こう側が透けて見えるくらい薄い水色の大きな球体である。
アルコールと海産物を求める人が多く集まると、それらの人々の欲望とこれまでの善行に応じて半径の広い球となる。
必然、人が多いところの磯丸水産は、それはそれは大きな球体となって突如として現れる。
その出来上がったばかり球体の中に一番最初に入った人は磯丸水産の店長となる。
店長となった人間の「確定申告って面倒くさいなぁ」という思いに応じ、磯丸水産の元となる球体が濃く色づき、濃ければ濃いほど生中ジョッキの温度が下がる。
そんな優しい概念、磯丸水産は思考力を失ったアルコールピーポーへ、平等に蟹味噌を分け与える。
蟹味噌を得た人間は、知恵を持ち、物を焼く、会話をする、海老を剥くといった行動を開始する。
いずれ知恵を持った人間は、網の交換を行うたびに、蟹味噌の存在に疑念を持つ。
蟹味噌は、味噌というが、実際はなんなのだろうか?
味があるだけの存在。
味噌ではないもの。
蟹の中に存在し、本来は蟹とともに消滅すべきもの。
我々は味という存在に、蟹味噌という名札をつけているだけではないだろうか?
その疑念を捨てきれず、人間は唐揚げと、つきだしのはんぺんを口にする。
ありありと存在感を見せるそれらに人間は魅了されてしまう。
そしていつしか、味の概念そのものになってしまった蟹味噌は、網の端っこへ追いやられる。
網の端っこで、ただただ焦げるだけの孤独な蟹味噌。
認知をされず、悲鳴をあげることも許されない蟹味噌。
俺は、俺は…。
俺は、蟹味噌だ…。
俺こそが…蟹味噌なんだ…。
いつか…。